2007年09月26日
【暗くなるころあの海で】
69.ボウコン
そもそも冬に雷が日常的に発生する地域というのが実に珍しいのだが、その数が尋常でないことで、日本海は世界的にも有名である。そんな荒れた海に面する富山で、ボウコンの話を聞いた。
荒れる冬の海はまた豊穣の海でもあって、沖に遠雷が轟くと漁師はこぞって命懸けで船を漕ぎだす。生きてかえれば莫大な富をもたらすが、命を落とすものもまた多い。そういう船には、決まって舳先に不思議な黒い陰が立つという。
漁師たちは、その陰を「ボウコン」と呼んで恐れる。ボウコンは亡魂の謂いであろうか。船が沈みながらもかろうじて生きて帰った漁師にボウコンのことを訊ねてみたが、ただぽつんと立つ陰が見えるばかりで、それが何をするということなかったらしい。
2006年03月06日
【こらむ灯台】
老人に話を聞きに行く週末(1)
10年ぶりに、叔父の家に行く。
江ノ島を見下ろす坂の上で、仏の絵を描き暮らしている叔父は、10年前から既に仙人のような風貌であったが、今日、ますます人間離れして、あたかも知恵がつきすぎて、化け物になってしまった猿のような、トボケた瞳で迎えてくれた。
『俺はな、わかったんだよ』
と叔父は言う。
『この歳になって、子供たちは家を出て行く、友達やつきあいのある連中は死んでいく。それでハタと気付くんだ。俺の人生は、こいつを幸せにしてやることだったんだな、って』
コイツ呼ばわりされた奥さんは、苦笑いをしている。
2005年07月18日
【暗くなるころあの海で】
68.カキショウ
牡蛎殻が足の裏でぺきぺきと乾いた音をたてて崩れていく。岸からは相当離れている筈なのにどこまでも遠浅の海が広がり、そこにぽっかりと島のように浮かんで見える平原が、見渡す限り牡蛎の屍骸で埋まっていた。
空はうねるように灰色の雲に覆われ、水平線のあたりがやけに白々と明るい以外は夕暮を思わせる色に世界を染め上げている。明るいところと雲の境が濁った黄色に縁取られ、それがうねうねとはるか岬のむこうまで続いている。時折海鳥の声が聞こえる他には船の汽笛ひとつ聞こえず、ただ足元で牡蛎殻がぺきぺきと割れる音だけが響いてなんとも陰鬱な気分である。
ふと気になって牡蛎のひとつを手に取ってみると、空であったはずのそれはずっしりと重く、中に何かの卵と思われる奇妙なものがびっしり詰まっていた。
喉の奥に小石が詰まったような気分がして、慌てて牡蛎を投げ捨てたが、見渡す限りの牡蛎殻に紛れてしまって、もうどれが今の牡蛎なのか判別できない。岸に戻ろうと振り返ると、岸壁のところにこれも判別できない暗い服を着た一団がじっと固まって、何やらこちらを伺っているようでもある。そのうちに潮が戻ってきたと見えて、徐々に平原は沈み始めたが、岸の一団は散る様子もなくなおじっとこちらを見ているようである。私はなぜだか一歩も動けず、足元を浸し始めた波に洗われながら岸に背を向けて沖を見ていた。
はるかな沖では雲から灰色の紗幕が垂れて雨が降り始めているようだった。
2005年02月23日
【こらむ灯台】
第3回湘南邸宅文化ネットワーク協議会シンポジウム
三浦半島の付け根に近い、小高く奥深い山から染み出した流れは、東西に細長い谷あいの田畑を潤わせながら、半島を縦断する街道と交差する。ここから流れは、海までのわずかな距離を幾度も蛇行しながら進む。
街道から、川沿いの道を海に下っていくと、その川の複雑な軌跡が、単純な直線の路地の少ない、曲がりくねった小道から成るこの街の区画を形作ってきたことがわかる。
大きな瓦葺の屋根の向こうに海を望みながら進んでいくと、ふと道がカーブしたそのむこうに、ひときわ狭く、薄暗い一角が見えてくる。
そこには、高い塀を周囲にめぐらし、さらにその道に面した一辺に竹垣を配した古めかしい屋敷があった。鬱蒼と茂った竹は、すでに竹薮と呼ぶにふさわしいほどで、小道に覆いかぶさるように陽の光を遮断している。門から覗く屋敷の外壁は黒い板張りで、中央の尖塔には、丸いガラスが嵌っているのが見える。とはいえ洋館風なのはそこだけで、屋根などは純日本的な数奇屋作りで、この屋敷がかなり風変わりな趣味を持った施主により建てられたものだと、見るものの想像に訴えかけるのだった。
さて、この建物は現存しない。ある日突然、土建業者がやってきて、建物を解体し塀を撤去し、竹薮を根こそぎ引っこ抜くと、あとには綺麗に整地された更の地面に、あっけらかんと明るい日差しが降り注いでいた。
失われたのは貴重な建造物だけではない。家をとりまき、周囲の環境を形作ってきたもの、この例で言えば、景観を複雑に彩る鬱蒼とした暗がりであるとか、見るものの想像をかきたてる人の想いが層になった歴史であるとか、そういった街を作る要素がごっそり消えうせていまったのだ。
ところで、私にこの喪失を嘆く権利はあるのだろうか。なぜなら、他でもない、その味気ない、陽光の燦燦と注ぐ更地の一角に、家を建てたのが他でもない私だからだ。



